ジョーの変化(1)

今回、なんだか感想の言語化にこだわっている。初回観劇時と次に観劇した時のジョーがあまりにも変わっていて、存在の概念としてはもう真逆になっていた。その衝撃が強すぎて、知識も深い考察もない稚拙で直情的な感想だけれど、自分が感じたままを覚えておきたいという欲求にかられている。

話は少しそれるけれど、そもそも自分が事前情報(ネタバレね)をなるべく避けたい理由としては、先入観なく作品そのものを自分の感覚で捉えたいから。事前情報で心や頭の準備をしてしまうのを避けたいスタイル。車に衝突することが決まっているなら、「車きてるよ危ないよ」って教えてもらうより、ドカンと吹っ飛びたい(車に衝突したい訳ではない)。最大限の衝撃を身をもって知りたい。

というわけで、原作や訳本は読まず、初日レポも避け、「若くて美しい放浪者」以外の事前情報をなるべく摂取しないで観劇したけれど、衝撃は初回ではなく次の観劇時に遅れてやってくることとなった。

以降、あくまでも主観で傾斜のかかりまくった感覚ですので、お気になさる方はどうぞここでブラウザをお閉じください。

 

ごく簡単にまとめると、ジョーの印象はこんな風に変遷した。

  •  観劇前:若くて美しい放浪者(イメージはスナフキンだったので、これはもうフリースタイルイマジネーションとして勘弁してください)
  • 14日観劇時:持つ者、現実の中の夢、
  • 19日観劇時:持たざる者、夢の中の現実、

 観劇前のイメージはもうアレでソレしてもらって、まずは14日に感じたジョー。端的に言うと、カスミを食べて生きている天人のようだった。実際口にしていたのはシャンパンだけど、イメージとしては同じような気がする。

慈愛に満ちた神々しい存在、という意味ではない。現実に振り回され酒代もままならない中で賑やかにぶつくさ言いながら日々を全うするニックの酒場の住人の中にいて、親切だけれど冷静で距離(壁)があって、どこか現実感がない。上等な服を着てシャンパンを好きなだけ飲み、気まぐれに金を使う「持つ者」。下流階級というよりかは上流階級の出で、出自が嫌になったのか大衆に混じって酒場に入り浸っているような印象を持った。酒場が現実だとしたら、ジョーの存在はファンタジーだった。

だから耳から入ってくる情報と自分の中の印象との食い違いに困惑した。子供の頃に苦労して働いたアイルランド系の移民、そういう設定は腑に落ちなかったし、佇まいと言葉遣いが一致しなかった。キティに夢を尋ねた時は唐突で気障だと感じたし、メアリーと酒を飲む理由を話す時は大袈裟に聞こえた。金への憎悪は理由がイマイチ理解できなかったし、何より最後に呆けて座り込む場面は違和感が大きかった。何事においても、そこまでの執着があるようには見えなかった。

誤解を恐れず書いているつもりだけど、誤解はして欲しくない。この違和感は、結局は自分の理解力の問題なのだと思っている。よっぽど単純な設定でない限り初回はいろんな情報が上滑りして上手く消化できない。まぁでも、まだ2日目だったから演者も手探りの状態だったのかもしれない。分からないけど。

 

それが19日観劇時のジョーは全く違っていた。14日のジョーが天上に飽きて気まぐれに下界に降り立った天人だとしたら、19日のジョーは金と感情を持て余す、血の通った悲しい人間だった。酒場の住人が夢や希望や愛を携えて日々を送る「持つ者」で、ジョーは持て余すほどの金を持ちながら望むものは何も得ることができない「持たざる者」だった。アメリカの良心を表したような理想の世界(ニックの酒場)に、孤独に存在するやりきれない現実だった。酒場こそが桃源郷でありファンタジーで、ジョーは取り残された現実の存在だった。

自分が受け止めた19日のジョーについては下記リンクの前記事をもって割愛するが、本当に概念がひっくり返った衝撃があった。そして血の通ったジョーが語る言葉には背景が宿り、震えるほどの凄みを覚えた。まさに14日に違和感を覚えたそのシーン。キティと夢を語り、メアリーと酒を語り、トムに金を語り、事を成し得ず呆けた顔で座り込むシーン。

19日は特に空気が違ったという感想も聞いているので、尚更そう感じたのかもしれないけれど、とにかくすごかった。すごかった。(突然の語彙力の喪失)

説得力があったとか、迫力があったとか、それなりの言葉を並べることはできるけれど、あの凄みはどうやっても伝えきれない。場を制圧するような張り詰めた空気の中に響く美しいジョーの声。仕草。目つき。声高く滔々とセリフは流れているのに、1ミリの身じろぎもできないような静謐な空間。

あのジョーを観られて本当によかった。

 

サローヤンジョーに自分の理想を重ねているようなので、あの感情的で人間臭くてやるせないジョーはもしかしたら原作の意図するジョーではないのかもしれない。原作の印象や、坂本さんが雑誌などのインタビューで語っていたジョーの印象は、14日の方が近かったように思う。でも自分にとってしっくりきたのは19日のジョーだった。

あまりの違いに、理解力の問題か、完成度の違いか、ただの偶然かと理由をいろいろ考えたけれど、思えば当然のことなのかもしれない。初日が明けてから千穐楽まで、演者は実際に舞台の上で何回も何回も繰り返し役を生きる。そうすることで、それまで見えていなかった背景や感情を感じ、理解し、その役の歴史を生きているのだろう。だんだんと設定に厚みが増すのも、感情が重ねられるのも当たり前だと腑に落ちた。

14日のジョーは親切で優しかったけれど冷静で壁があった。19日のジョーは感情的で悲しみが育っていた。最後3公演を観劇する予定だけれど、その時のジョーはどんな風になっているだろう。とても楽しみにしているけれど、涙腺とおしりが崩壊するんじゃないかと危惧もしている。

 

 

19日のジョーについて書いた過去記事:

ao-theloved6.hatenablog.com

 

 作品そのものについては、原作を読んだりいろいろと情報を集めるうちに当初とは違う印象になりつつもあるのだけれど、それについてはまた今度。集めた資料をまだ読み切れていないのである。移民、アメリカ、サローヤンの理想と現実、良心、なんかがキーワードかなと思っているけど、やっぱりなぜサローヤンジョーにブリックを殺させなかったのか、そこのところが全く分からないのです。迷子です。